社会性の狭間

最近、外向けのアクションをとることが多く、「自分の中の倫理観が社会に適合しているか?」をたまに考える。

正直、道徳心が高いとも思わないし、人理が伴った精神があるとも思わない。
どちらかといえば、利己的な方だと思う。
表には出さない考えだってある。
表に出さないのは、「おそらくこの考え方は社会に適合していない」と勘が働くからなのだけど。

自分にとって大事にしたい人たちに対しては、この辺りは歪んでいて「裏切りたくないな」「期待に答えたいな」と思う。
だけど、この辺りは「その時の感情に利己的なものがないのか?」などと自問するのでタチが悪い。
まったく、すっぱり気持ちよく生きている人というのは羨ましい。
そんな自問をせずに生きてみたいものだけど、気が付くと自分への監視を自分でするものだから、本当によくない。

こうやって、これからも社会性の狭間で悩むんだろうな。

と書いたところで、別に病的に悩んでいるわけでもないし、固着した感情でもないけども。

東京百景

又吉直樹さんの著作を初めて読んだ。
世間なら又吉直樹作品の入り口は、賞を取ったものや映像化されたものになるんだろうが、結果としてそれらには触れてくることはなかった。

ならなぜ急に?となる。

帯だった。

「ドブの底を這うような日々を送っていた」

惹かれてしまって、レジを通すことになる。

こういう出会いがあるから、書店に足を伸ばすことをやめられずにいる。
衝動的に買い、崩せずにいる書籍の山もあるというのに。

東京にきて 12 年になる。
人生の3分の 1 を超えたところを過ごしてしまった。
ただ、郷愁に焦がれて帰ろうかという気持ちはない。

そんなところで、出会った書籍だった。

ドブの底を這うほどの日々を自分も送ったかはわからない。
そういう思いは相対的なもので、見たものによっては尺度も違うだろう。

エッセイと小説のその間をふらふらとする様が作者の生き様なんじゃないだろうかと思う。
屈折と鬱屈をユーモアで書き記していく様は、芸人故のものかもしれない。
だからだろう、フリオチが効いたものが多いとは思う。

『「想像力の欠落した豚は黙っていろ!」~「心」と「想像力」を放棄したものは例外を認めず「豚」なのである』
昨今、想像力の欠如した心ない言葉は、世にあふれるばかりである。
ただ、言うか言わないかの差でしかないと思えば、「見える化」されてしまっただけかもしれない。
顔をみて相手に投げかけることを躊躇しない範囲の表現であるかの判断をする倫理観なんてものを誰も、本当は持っていないんじゃないかとも思わないでもない。現代においては。
(リプライつけてまで言う人には辟易とするけど。)

A 少年と B 少年、自分はどちらだろうか?どのくらいのバランス感で生きているんだろうか?

この文章、読み手(の境遇)次第であくまで、「A 少年であるべき・B 少年嫌い」とか、「B 少年が現実主義者で・A が夢想家でそういうものだ社会は」みたいな達観した意見もあると思う。
私は「どっちも人間だ。好きにしろ。」っていうのを感想として持った。

織田作之助の著作をぜひ読んでみたいと思った。

又吉さん、綾部さんのこと好きなんだな。ほんとに。